音源 | mp3 |
1. おお 晴朗の 朝雲に |
【正気】(せいき)・・・文天祥の「正気歌」に由来。おそらくこれに倣った藤田東湖や吉田松陰らの「正気歌」が念頭にあるのだろう。特に東湖のそれの影響が強くみられる。「正気」とは、あらゆる優れたものを生み出す超ポジティブなフォースと考えてよい。 東湖の「天地正大気、粋然鍾神州」ではじまる「正気歌」は有名で、1943年の学徒出陣壮行式では東条首相もこれを引用している。 【大八洲】・・・記紀にみえる、国生みで生じた8つの島。転じて日本の意。島の内実は資料により異なる。 【金甌無欠】・・・「我国家猶若金甌無一傷欠」(『南史』) 国威精強で外襲を受けないことの喩え。戦前の日本でしばしば用いられた。 【一系】・・・万世一系。万世一系の尊重は、特に儒学に由来する。いわく、易姓革命がなかったという事は、日本の統治が徳政で一貫しているという事になると。この事から日本の優秀性を導き出す発想は、『神皇正統記』(大日本ハ神国ナリ)の戦前における解釈から「教育勅語」(国体ノ精華)にまで広くみられる。ただ、戦前の万世一系概念の直接的な由来は後期水戸学だろう。 【往け八紘を宇となし】・・・神武紀に由来。「掩八紘而為宇不亦可乎」。ここから「八紘一宇」という造語が明治時代に国柱会の田中智学によってつくられた。のち、日本の国策用語となる。なお、国柱会はご存知、石原莞爾や宮沢賢治が所属していた日蓮宗系の教団である。北原白秋の後妻もここの信者。 |
2. 起て 一系の 大君を 光と 永久に戴きて 臣民我等 皆共に 御稜威に副はむ 大使命 往け 八紘を 宇となし |
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3. いま 幾度か 我が上に 試練の嵐 哮るとも 断固と守れ その正義 進まん道は 一つのみ ああ 悠遠の 神代より |
<備考> |
[曲について] - 【作詞の経緯】 盧溝橋事件の発生を受け、1937(昭和12)年9月25日、制定するに当たって先ず歌詞の募集が行われました。「週報 第50号」(9月29日発行)に掲載された「愛国行進曲懸賞募集規定」によると、次のような表記が見えます。 ・「国民が永遠に愛唱し得べき国民歌」 こうして公募した結果、同年10月20日の締め切りまでに5万7500余首もの詩が集まりました。国内のみならず、外地や外国、前線兵士からの応募もあったといいます。 11月3日、最終的にその中から鳥取県西伯郡の森川幸雄の詩が選ばれました。「週報 第56号」(11月10日発行)を見ると、今の一聯の歌詞が二分されて、全6番になっていることがわかります。つまり、 一、 二、 となっているということです。 選考にあたった文人たちが原詩に大幅に手を加えた為に、詩が原形をとどめていないという話しもあります。審査員は次の通り。 内閣情報部 このうち、佐々木信綱と北原白秋の意見が対立し、両名はその後まったく口をきかなくなったといわれます。 なお、この歌詞には盗作説があります。島村抱月が旅順陥落を受けて1905年1月に書いた「旅順陥落朗吟歌 将軍之詞」です。 見よ 東海の 曙に 似ているといえば似ていますがどうでしょうか。森川の原詩がわからない以上、何ともいえません。 - 【作曲の経緯】 内閣情報部は当選歌詞を発表すると同時に、今度は「愛国行進曲作曲懸賞募集」を発表し、曲を募集しました。規定には、 ・「我国民が汎く老幼男女を問はず和唱することを得、且行進に適する曲調にして美しく明るく力強き作品であること。」 といった文言が見えます。 こうした結果、同年11月30日の締切までに今度は9555篇(締切後到着を含めると1万408篇)が集まり、12月20日その中より「軍艦行進曲」を手がけた瀬戸口藤吉(東京府麻布区)の作品が選ばれました。審査員は次の通り。 内閣情報部 こういった公募に著名人が応募してくると審査員は困るといいますが、瀬戸口の作品を選ぶ際にもいろいろ揉めたのではないでしょうか。作曲者名は伏せて審査したとも言われますけれども、現実がどうだったかは謎です。もっとも、有名な作曲家が応募して落選したりもしていますが。 - 【レコード販売後】 こうして国民を巻き込んで大々的に「愛国行進曲」は製作されたわけですが、「国民が永遠に愛唱し得べき国民歌」とするために、レコード各社も音盤化に総力をあげました。 翌1938年1月にレコード会社各社から一斉にレコードが発売されます。各社とも人気歌手に続々と吹き込ませた結果、レコードの類型売り上げ枚数は100万枚を越えました。陸海軍の軍楽隊も多くの録音を残しています。 - 【替え歌、翻訳】 こうして国民の間に定着していった「愛国行進曲」ですが、その分、戦局が悪化するにつれ、替え歌の格好の対象にもされました。「見よ東条の禿頭・・・」で始まる替え歌は特に有名です。以下に例をあげておきます。 1. 2、 なお「愛国行進曲」には、外務省翻訳官小畑薫良(小畑英良陸軍大将の兄)による英訳がある他、1942年にフィンランド語にも訳されています。 - 【盟邦ドイツで合唱】 1941年3月、訪独した松岡洋右外相を歓迎する為、ゲッベルスの指示のもとこの愛国行進曲がドイツ人によって合唱されました。その36時間前に突如決定したので、歌手は徹夜で練習したといいます。 なお合唱の際にはヒトラーも臨席していたようなので、愛国行進曲はヒトラーの聴くところにもなったということになりそうです[2]。 <脚注> - [音源情報] 編曲:奥山貞吉 コロムビアの「軍歌・戦時歌謡大全集4/戦時歌謡2」に収録されているものと同じ音源です。ただ採録環境などを考慮すると、CDで聴いた方がよりもとの音に近いでしょう。 収録されているCDは無数にありますが、上掲のもの以外ではビクターの「軍歌戦時歌謡大全集」(評)をあげておきます。 - [参考関連文献] ・「週報」 内閣情報部(アジア歴史資料センターより) |
[歌詞・備考] [原典・楽譜] |