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元寇
1892

作詞・作曲:永井建子

 

収録CD:
軍歌・戦時歌謡大全集
日本の軍歌(一)暁に祈る

1.
四百余州をこぞる 十万余騎の敵
国難ここに見る 弘安四年夏の頃
なんぞ恐れんわれに 鎌倉男子あり
正義武断の名 一喝して世に示す

【弘安四年】・・・1284年。
2.
多々良浜辺の戎夷 そは何 蒙古勢
傲慢無礼もの 倶に天を戴かず
いでや進みて忠義に鍛へし我が腕
ここぞ国のため 日本刀を試しみん
【そは何 蒙古勢】…「蔽海而来者何賊/蒙古来」(頼山陽「蒙古来」)

【倶に天を戴かず】・・・「不倶戴天」。

【日本刀】…「不使羶血尽膏日本刀」(「蒙古来」)

3.
こころ筑紫の海に  浪おしわけてゆく
ますら猛夫の身 仇を討ち帰らずば
死して護国の鬼と 誓ひし箱崎の
神ぞ知ろし召す 大和魂いさぎよし
【こころ筑紫】・・・掛詞。「こころを尽くす」とかけている。

【箱崎】・・・筥崎八幡宮。

4.
天は怒りて海は 逆巻く大浪に
国に仇をなす 十余万の蒙古勢は
底の藻屑と消えて 残るは唯三人
いつしか雲はれて 玄界灘月清し
【逆巻く大浪に】・・・「官軍六月入海、七月至平壺島、移五龍山。八月一日、風破舟。」(『元史』)

【十余万の蒙古勢は〜残るは唯三人】・・・
「十万之衆、得還者三人耳。」(『元史』)

 

<備考>

[曲について]
 1892年、日清戦争必至の情勢となる中、元寇を記念して九州の筥崎八幡宮前に亀山天皇の銅像を建てることになりました。陸軍軍楽隊隊長であった永井建子がこれに賛同して、つくったのがこの歌です。『音楽雑誌』に初出。

 1894年、日清が開戦するとこの軍歌は大いに歌われ、平壌の戦いでは苦境に陥った部隊がこの歌をうたって士気を盛り返し、勝利を収めたという史実があります[1]

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 歌詞には『元史』からの引用が見られます。また、頼山陽の「蒙古来」(『日本楽府』)から幾つか言葉や展開の着想を得たのではないかと思われる箇所があります。この他、『八幡愚童記』などからの引用もあると推測されますが、調査中です。

 頼山陽「蒙古来」については、掲示板でさんにゃん様からご指摘を賜りました。ありがとうございます。

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<脚注>
[1] 堀内敬三 『定本 日本の軍歌』 実業之日本社、1969年、57-62頁。

<参考関連文献>
・『元史』(繁体文)
・『旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝』 現代語訳つき
・『八幡大菩薩愚童記―蒙古襲来の原典
・『北条時宗―史上最強の帝国に挑んだ男

 

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